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Sweet Child O' Mine.
Romancing SaGa -Minstrel song.-

12. ブレイクスルー

 予定より少し遅れて俺たちはジャングルへと入った。といってもモンスターが出ることもないある程度できている踏み固められた道を進むだけなのだから道のり自体はそれほど苦ではない。ただ、その亜熱帯特有のうだるような湿気に満ちた暑さに、すでにアイシャはグロッキーとなっていた。ジャングルに入ると太陽を浴びた草木から湿気を伴い、その草いきれによって実際の気温よりもずっと体に熱を閉じ込めてしまう。乾燥地帯に育った赤毛にとっては結構な苦行だった様子だ。

「あーーー……あづい……。ううーー」

 首元にいつもかけてるケープをばたばたとはたいて熱を逃がそうとしていたアイシャだが、もう辛抱できない様子で

「これっ……取るっ。首が汗だくで痒くなってきたーーっ」

 といってケープのヒモを緩め始め、それを取り去る。なるほど首筋には大量の汗が流れ、見るからに不快そうだった。よく見ると、顔も赤くなり呼吸も荒い。

「おい大丈夫か?水はこまめに飲めよ。あと少しで着くからよ」

 ウエイプまでは歩いて二時間ほどなんだが、その間でもうこんなに音を上げるとは。

「うん……だいじょうぶ……」

 足取りも重いようだったがなんとか歩かせ、ようやくウエイプの町に到着した。

 しかし町の入り口に差し掛かるとよほど到着に安心したのか、その途端、なんとアイシャはその場に崩れ落ちてしまったのだ。

「アイシャさん?!」

「おい!!アイシャ!?」

 俺たちは驚き、気を失ってしまった赤毛を宿へと急いで運び込んだのだった。

 

 

 

 

 ……。

 …………。

 ここはどこなんだろう。

 よくわかんない、何かぐらぐらする……。

 体があついよう……。

 あたまが、いたい……。

 

 

 アイシャは自分がベッドに寝かされているのを悟ったが自分に何が起きたのか分からないでいた。薄い意識の中ででホークと医師らしき男が話す声がかろうじて聞こえてくる。

 

「症状自体はちょっとした熱中症じゃ。しかし熱もそれほど高くはないし、普通ならブッ倒れるほどじゃあない。さしずめお嬢ちゃん、元々体調が悪かったんじゃろ。まあしばらく安静にさせてやるがいい」

「本当に大丈夫なんだろうな、じじい」

 なんだか少し苛立っているような、ホークの鋭い声がアイシャの耳をつんざく。

「あーん?ワシァこう見えてもこの一帯じゃあ信頼されてる医者じゃぞ、ボケ。んじゃあまたなんかあったら呼べ」

「おい薬とかねえのか」

「熱中症は涼しくして安静が一番の薬じゃ。まあ強いて言えば塩分と水が薬というところじゃろう。あと頭のタオルはこまめに取り替えてやれ。ちゅうか熱中症の対処法なんざ、いまさらワシが教えて差し上げんでもとっくによくご存知じゃろうが、ん?キャプテン・ホークよ」

 そう言って彼は意味ありげに微笑うと、老医師は俺から銅貨を三枚受け取ると部屋を出て行ったのだった。

 

 実はこの医師の男とは面識があった。船上で開業した医師で、大昔からサンゴ海界隈を漂いながらパイレーツコーストでもどこでも通うっていうなんだかよくわからん素性の胡散臭いヤブだ。噂では大昔メルビルの軍医だったなどとも聞くが、眉唾ものだった。この島では信頼されてるなんて本当かどうかも謎だったが、今、島に医師は彼しか居ないというので渋々連れてきたのだ。

 そりゃあ熱中症の対処なんてのはよく知ってはいるが、野郎ども相手なら甲板の端っこに転がして、上から海水ぶっかけてやればそれで良かったからな。

  

「色々あってお疲れだったんでしょうか」

 相棒がアイシャの苦しげな寝顔を見ながら、心配気な目の色をしてそうつぶやいた。

「まぁ、そうかもしれねえがなあ。しかしまさか、あれくらいのことでぶっ倒れるなんて思わねえだろ」

「旅慣れていないからでしょうね。それにわずか十五歳というご年齢ですし」 

 そうだなあ、と俺は生返事をするしかなかった。

「おう、そうじゃったそうじゃった」

 今しがた出て行った医師がドアからふたたび顔を出す。

「お嬢ちゃんな、服が苦しそうじゃし、ちゃーんと汗を拭いてやって着替えささんと今度は風邪っぴきじゃぞ。今見た限りじゃあ服がグッショグショじゃ。第一不衛生極まりない。荒くれの男どもってんならともかく、若い娘さんが不衛生なのは色々と不味いぞ。わかったな?」

 なんだと?服を、着替えさせる、だと?

「お、おい、待て、じゃあそれお前がやってくれよ」

 咄嗟に俺が言うと

「そいつはワシの仕事じゃありゃあせんわい」

 ときたもんだ。じじいはそう言い残すとさっさと部屋を出て行ってしまった。

 

「……おい、そんなの誰がやるってんだ」

「わ、私にはちょっと、無理です……」

「俺だって、というか駄目だろう……。やったとしても、気付かれたら半殺しだ」

「かもしれませんね……」

 なんでこう次から次へと試練が降り掛かってくるのか。俺が一体何をしたってんだ。と再び天を恨みたくもなった。どうしようかとちらりと赤毛の方を見ると、依然真っ赤な顔をして、口元は死にかけの魚みてえに半開きになりはぁはぁと小刻みな呼吸をしている。とりあえずは苦しそうなので何とかしてやりたいのはやまやまなのだが……。

「……とりあえずゲラ、飲み水もらってこい。桶とタオルもだ」

 相棒はわかりましたと言うと、一旦部屋を出ていった。

  

 俺は一度ベッドの傍にある椅子に座ると、黙って赤毛の様子をじっと眺めた。その顔は如何にも苦しそうにあふあふと息をしていて、本当に大丈夫なのかと不安が募る。そっと額に手を置いてみたが、だいぶカッカしていて、本当にこれ熱高くねえのかよあのクソヤブがと苛立ってきた。ふと細い首筋にも手を遣ってみると言われるとおり汗でかなりベタついていたし、服もしっとりとしている。

「うーーーーーーん……」

 迷っているうち、戻ってきたゲラが部屋をノックする音が響いた。

「キャプテン、水桶とタオルと飲み水をもらってきました。あと、この宿の部屋着のようなものもあるというのでもらってきましたが……」

「ああ。ありがとうよ」

 俺がそう言うと、ゲラは部屋のテーブルにそれらを置いて黙って部屋を出て行きやがった。

 ……野郎、俺にやらせる気かよ。とはいえ、ゲラがそれをできるなどとは微塵も思ってはいなかったのだが……。すると唐突にゲラの言い訳めいた声がドアの向こうから聞こえてきたのだった。

「すみません……。さきほどこの宿の女将が居たので、事情を少し話してなんとかできないかと頼んでみたのですが、そんなサービスはやっていない、の一点張りでして。あんまり言うと、いろいろ勘ぐられそうなので断念したんです。我々の素性をあまり深く探られるとそれはそれで厄介ですし……」

 ドアの外から申し訳無さそうな色の声でそう弁解する。

「チッ、サービス精神のねえ宿だな、全くよぉ」

 思わず舌を打たずにはいられない。しかしそうこうしている間にも赤毛は苦しそうに呻くは喘ぐはで、このままじゃあどうにもこうにもならねえ。俺は一回強く息を吐くと、徐ろに立ちあがり、部屋に施錠をするとアイシャにかぶせていたタオルケットをそっと剥ぎ取った。

「恨むなよ……。恨むんならぶっ倒れた自分を恨め……」

 仕方がねえことだと意を決したその時だ。

「ホー……ク……さん……」

 と、唐突にアイシャが息も絶え絶えの声をあげたので、俺は思わずギクリとしてしまった。

「何だ……っ、お前、起きてたのか」

「うん……。さっきの、はなしも、聞こえた……。あたし、脱ぐの、自分で……やるから……大丈夫だよ……」

 お、そうか?そうしてくれるならそれに越したことないと俺は一旦胸を撫で下ろす。

「本当に大丈夫か?」

 そう確認すると、赤毛は「うん……」と力ない返事。そしてもそもそと体をなんとか起こしたはいいが、ぐったりと項垂れて動くのもやっとといった風情だった。

 とりあえず水を飲ませてやってから、もう一度確認する。

「出来るか?」

 アイシャはこくりと頷いたが、水桶の置いてあるテーブルは数歩先。また作り付けで固定してあるテーブルなので移動することもできず、仕方なくベッドから降りようとするとふらりとよろめいて俺にしなだれかかってくる始末だった。手にも力がなく、支えていないと床に倒れてしまうであろう軟体感。そして胸元でアイシャのかなりの熱を浴びてしまった。その瞬間(ダメだなこりゃ……。)と直感的に感じ取ってしまった。

「分かった。とりあえずあっち向いてるからよ、服だけ自分で脱げ」

「……えっ」

 もう一度赤毛をベッドに座らせてから俺は言う。

「脱いだら布団だけかぶれ、できるだけ見ねえようにして拭いてやっから」

「えっ、でも……でも」

「そのままだと風邪引くって言われただろ?そんなんじゃ、俺たちも困るんだよ」

 困ると言われてアイシャは恥ずかしそうに項垂れたが

「分かった……。脱ぐから……あっち、向いてて……」

 やはり苦しそうな声だが、素直な返答が返ってきた。

「おう」

 俺はドアの方を向いて仁王立ちに成り、赤毛が服を脱ぐのを待った。

「よい……しょ。うう、汗でひっついてて……脱ぎにく……」

 赤毛の服はオーブンなようで、中に着ている服などは結構密着した服のようだから、汗でくっついているなら苦戦もするだろうなと心の中で思っていると

「うーーーっ……………………はぁ……はぁ……」

 と、なんだか力尽きたような荒い息。

「……おい、大丈夫か」

 心配になって、そのままの姿勢で声をかけてみた。

「……かた……い……」

「自力で脱げねえのか」

「……うん……。ごめんね……もうちょっと、待って……」

「ん」

 しかし待てど暮らせど一向に脱衣が進む様子がない。俺はできるだけ苛つかないようにしていたが、自然と腕組みしていた指を忙しくトントントンと忙しなくやってしまっていた。静かな部屋だから、その音も響いてしまうのだろう。すると後ろから荒い息と共に、鼻をすするような声が聞こえてきたじゃねえか。

「……お前、泣いてんのか?服が脱げねえからって泣く奴があるかよ」

「だって……。あたし……ホークさんに、迷惑ばっかりかけてる……から……」

 布団か何かに、ポタポタと水滴が落ちる音まで聞こえてくる始末だった。

 俺は一度、強くて長いため息を吐く。そしてくるりと踵を返した。

「えっ……えっ」

 突然自分のほうを向いてつかつかとこちらに近づく俺に、アイシャは明らかに驚き狼狽しているようだった。

「どうやって脱ぐんだこれ」

「あのっ……えっ……と」

「ここ引っ張るのか、袖がキツイんだな」

「ちょっ……あのっ……そ……」

 明らかに恥ずかしがって動揺しているアイシャを無視して、俺はベッタリと張り付いている服を、破れない程度にちょっと乱暴に服を剥ぎ取った。

「いやぁっ……!」

 脱がした瞬間に一瞬乳房が見えてしまい、アイシャは反射的に小さく悲鳴を上げたので俺は少しだけ悪いと思いながらも、何もないかのように心を無にして絞ったタオルでアイシャの長い髪を避け、露わになった裸身の背中を清拭していく。

 アイシャは乳房を隠すように前屈みになってそれを黙って受けていた。

 裸身になると改めて思うが、本当に小さくて細い体だった。こんな体に無理させちまったかなと、後悔が湧く。

「よし後ろ終わった。腕出せ」

 俺に強くそう言われて、そろそろと胸を押さえていた両腕のうち片腕を出す。その腕を丁寧に拭いてやると今度は反対側だ。軽くベッドに乗り上がって反対側の腕も拭いてやる。そして首や鎖骨のあたりもだ。

「むっ、胸は、自分で……やるからっ……」

「そうだな」

 新しく絞ったタオルを渡して、向こうを向いといてやる。

 全く俺は、聖人にでもなった気分だ。裸身になったアイシャを見ても、ある種の愛おしさは感じるものの自分でも不思議なほどにおかしな感情が一切湧いてこない。ああそうか。今は多分あれだな、と思い出した。

「お前が言ったんだったけな」

「……え?」

「俺は、お前の父親代わりだって言ったな。父親が娘の素っ裸見たっておかしな気起こすかよ」

 その言葉を聞いて、アイシャは

「でも……あたしの歳なら、誰でも、恥ずかしいと……思うよ。たとえお父さんでも……」

 と恥ずかしそうなのか苦しいからなのか、両方なのか、絞りだすような声で発した。

「そりゃあ娘の方は年頃なら仕方ねえことだろうが、親父はそうでも無いと思うぞ。特に娘が病気の時なんかはな」

「あたし、お父さん居ないから、よくわかんない……」

「じゃあ今は俺が父親だ。親父の言うことは聞け」

「……うん。……拭いたよ」

 そうか、と言って振り向くと、アイシャが恥ずかしそうに俯いてタオルを差し出していた。

 俺は部屋着とか言うのを頭から掛けてやる。ここの部屋着とか言うのは上から下まですっぽりかぶるタイプのやつらしい。着るのが簡単なやつで助かった。

「それ着たら次は足だ」

 と言って、ちゃんとそれを着たのを確認するとアイシャの膝からつま先まで拭いてやった。

 相変わらずアイシャの息は荒く、ベッドに横たえてやると、シーツに張り付いたようにぐったりし始めてしまった。清拭が終わり俺は彼女にタオルケットを掛けてやると

「まあ、今日はゆっくり寝てろ。少ししたらまた様子見に来てやるからよ」

 そう言って俺が赤毛の頭をぽんぽんと撫でてやる。すると

「……ごめんなさい……」

 なんて言いながらまた赤毛は泣き始めたのだ。

「なんで泣くんだ。お前は本当によく泣くやつだな。泣いたらまた水分が余分に出ちまうだろうが。もったいねえ」

 そう言って俺はアイシャの涙を指で拭ってやった。

「それによ、こういう時に言う科白はそうじゃねえだろ。こういう時はありがとうって言うもんだ。わかったか」

 俺のそんな言葉を聞いてアイシャは少しだけ口端に笑みを湛えながら

「……うん……。ありが……とう……」

 とか細く言った。俺も安堵し、つられるように微笑う。

「じゃあ、しばらく出てくるからな。大人しく寝てろよ。すぐ戻ってくるからな」

 そう告げて、ドアを開けると外から部屋の鍵で施錠する。そして受付ロビーに向かうとそこにいた相棒にパブに行くことを告げた。

「大丈夫ですか?アイシャさん」

 と、少しだけ心配そうな相棒だったが

「体拭いてやったら少しスッキリしてたから大丈夫だろ。一時間だけだ」

 このウエイプと言うのは海賊に対して警戒が厳しい町である。海賊の根城があるサンゴ海が目前なのだから仕方ないが、それだけにここのパブに潜りゃあ、もしかするとブッチャーたちの動向も耳に入るかも知れねえと思ったからだった。

 その前に、受付のカウンターにいるこの宿の女将に声をかけた。

「おう女将よ。ここは洗濯サービスぐらいやってねえのか」

「有料でやってるよ。普通の衣類なら一枚につき十金」

「じゃあよ、この鍵の部屋だが後で取りに来てくれ。二時間後だ」

「あいよ」

 女将は鍵を受け取ると番号を見て伝票のようなものに何やら書き込んでいる様子だった。

 

「あー、俺のもしばらく洗ってねえなあー」

「そうですね、言わずにいたのですが、実は少し臭います」

 相棒は苦笑とも取れる色の乗った声で毒づいた。

「マジかよ、早く言えよ」

「ご自分でも気付かれているのとばかり」

 気づいてたら洗ってるだろ莫迦野郎め。

 

 

 町の高台にあるパブへと足を踏み入れると、見慣れたじじいの姿が見えた。あのヤブ医者が酒をかっくらっていやがったのだ。まだ辺りは夕方で明るいのにだ。

「お?キャプテン・ホークじゃないか。どうだいお嬢ちゃんの様子は」

「医者がこんな時間から引っ掛けてもいいのかい。……というかここでキャプテンとか言うのやめてくれよ。この町で海賊だと思われちゃ厄介だ」

 俺は多少呆れていたが、そういや昔から常に酒くせえじじいだったと思いだした。この俺がそう思うのだから相当である。

「酒は百薬の長じゃ。しかしさすがのワシも未成年のお嬢ちゃんには勧めんがね。ふっふっ。ところでホークよ、あの娘さんはお前さんの何じゃ?コレか? あの件があってだいぶ女遊びをやめておると思っとったらまたエライ若いのを捕まえよって。ちゅうか若すぎやせんか」

 じじいは小指を突き出し下卑た笑いを浮かべやがる。

「そんなんじゃねーよクソじじい。しっかしこんなとこであんたに会うとは思わなかったぜ」

 俺は出てきた酒をグビリと煽ると、じじいを睨みつける。

「それはワシのセリフじゃい。なんでもお前さん、裏切り行為を断罪されてパイレーツコーストを追放されたというじゃないか。レイディラックが沈んだというから、とうに海の藻屑になってるかと思ったらあのあとこの島でお前を目撃した人がいると聞いてホッとしておった。しかしまだここにおったのか。ほとぼり冷ましに相棒の洞窟にでも潜んどったのか」

「色んな所を旅して今日久しぶりに戻ってきただけだ。ここもすぐに発つつもりだったんだが、連れがあんなことになってすっかりと足止めだぜ。それによ、裏切ったのは俺じゃねえ、ブッチャーの野郎だ。あいつにまんまと嵌められちまってよ」

 フッと、自嘲めいた笑いが独りでに浮かぶ。

「ま、そんなことだろうとは思っておったがな。お前さんが生きておることを知ればブッチャーは執拗に命を狙ってくるぞ。精々気をつけることだな。なんせ若い娘も連れとることだし」

「じじい、何か知ってんのか」

 俺はじじいの言い草がふと気になって、鋭く問いかける。

「小耳に挟んだ程度じゃが、お前さんが生きとるらしいという噂を聞いて今度こそ殺してやると息巻いておるとか。しかしあやつ今はまるで狂気の沙汰じゃ。次々と商船を襲い乗組員を皆殺しにするだけじゃあ飽きたらず、帝国と本気で戦争しようとしておるともっぱらの噂じゃから呆れるわ」

 その話を聞き、あいつとうとうマジで頭いかれちまったんじゃねえのか、と思わず笑いすらこみ上げてしまった。じじいは話を続ける。

「そんなブッチャーに進言したり恐れを成し逃げ出そうとした手下までも見せしめと拷問や縛り首にしちまうし、あいつはなんだ、さしずめ悪魔にでも取り憑かれたとしか思えんよ。お前さんという枷がいなくなり、抑制がなくなったことによる暴走だとして度が過ぎておる。ひどい有様じゃよ今やあそこは。ワシも命の危険を感じてな、しばらくサンゴ海の船の医者は休業しておる」

 じじいも忌々しそうな顔色をし、酒を煽り続けていた。だからこのワロン島に居たわけだな。しかしじじいはなんだってそんな話を俺にするんだろうか。考えられることは一つだ。

「じじい、あんた暗に俺に戻れと言ってるんじゃねえだろうな」

「わかるかあ~?」

 じじいはニヤリと笑った。

「今やあそこは内部でブッチャー派とそうでないのと分かれておる状態だ。お前さんさえ戻れば、ブッチャーのやり方に反対する奴らが自然と味方してくれるはずじゃぞ」

 俺はそんなじじいの言葉に、肩をすくめるしかなかった。

「今の俺にゃあ船も無えから、コーストに戻る術がない。戻っても船なし船長なんざ何もできねえよ。ブッチャーの奴は憎たらしいが、今はまだ時期じゃねえ。それに今、俺はそれどころじゃねえんだ。陸の上で少々やることができちまってな」

 そう言いじじいの目論見を却下した。じじいは少しだけ驚き意外そうな顔をしたものの、しばらく何かを考え

「……そうか。お前さん、変わっちまったな」 

 と、つぶやくように漏らしていた。

 

 じじいからちょっとした情報も聞けたことだし、俺はさっとパブを後にし宿に戻った。赤毛が寝ている部屋に鍵を開けて入ると、彼女はスースーと寝息を立てて眠っていたのだか、特に俺はやることもねえもんだから、椅子を引いて座り、じっと赤毛の寝顔を見つめてしまっていた。時折頭のタオルがぬるくなっていたので新たに絞り取り替えてやる。顔はまだ赤いが、先程よりは幾分苦しそうな気配が減った気がした。

 彼女の寝顔を見ていて、じじいの言葉をふと思い出す。「お前さん、変わったな」だと。じじいが何を思ってそんな言葉を洩らしたのかはわからねえが、今まで海の上で暮らしてきた俺がこれだけ長く陸の上にいりゃあ、少しぐらい考えや方針が変わっても当たり前だ。

 その時、部屋にコンコンと乾いた木の音が響き、次には従業員の声が響いた。

「洗濯物を引き取りに参りましたー!」とひときわ大きく陽気な声をあげる。

「おい人が寝てんだ、静かにしろ」

 俺が少しだけ睨むとそいつはす、すいませんと萎縮してしまった。俺がアイシャの汗と砂まみれの衣服を頼むと

「これは結構良い刺繍のものですねえ。ちょっと追加料金いただかないと……」

 などとほざくので、いくらでもいいと言ってやると、上機嫌で引き取っていった。

「お戻しは明朝八時に成りますー」

 

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Last updated 2015/6/3

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